医師 宮沢あゆみのコラム「月経前不快気分障害(PMDD)とは?」
<症例2>
佳奈子と同棲を始めて1か月が経とうとしていた。6か月間付き合って、彼女となら楽しく暮らせそうだと思い始めた矢先に、彼女の方から俺のマンションに転がり込んできたのだ。
掃除好きの彼女が来てから、ゴミタメのようだった部屋がきれいになった。料理を作ってもらえるのも好都合だった。明るくて家庭的だし、結婚も悪くないかなと思い始めた矢先だ。あの悪夢のような出来事が俺を襲ったのは・・・。
1週間の出張を終えて帰ってくると、佳奈子がうつろな顔でダイニングに突っ伏していた。「どうしたの?」と聞いても何も答えない。部屋もちらかっているし、夕飯も作ってない。「腹が空いたな・・・」とつぶやいたとたん、突然、台所のフライパンを手に取って俺に殴りかかってきた。
「何をするんだよっ」 咄嗟に腕をつかんでフライパンを奪い取った。すると彼女は、「あなたはいつも自分勝手なのよっ、大嫌い!」とわめいて、自分の部屋に引きこもってしまった。俺は訳がわからなかった。一体、何がおきたのか、理由がさっぱりわからない。
しばらくすると、佳奈子はリビングのソファーでテレビを見始めた。特に悲しい場面でもないのに、なぜかポロポロと涙を流している。そして、そのまま寝てしまった。翌日の夕方、俺が仕事に出かける時も、まだソファーで寝ていた。その日は夜勤で、俺が帰宅したのは翌々日の昼過ぎだった。
恐る恐るマンションのドアを開けると、いい香りが漂ってくる。佳奈子がお菓子を焼いていた。「お帰りなさい!ケーキを焼いたから、一緒に食べようねっ」いつもの彼女に戻っていた。俺はパニックに陥った。彼女は二重人格者なのか?
やる気や集中力がなくなったり、少しのことでイライラして、他人に対して攻撃的になったり、理由もなく涙が止まらなくなったり、気持ちが落ち込んでうつ状態になったり・・・。女性は自分の感情をコントロールができなくなる時期が周期的に訪れることがある。
その時期は月経前に限られていて、月経が始まるとストン症状が落ち着くことから、「月経前症候群」(Premenstrual Syndrome=PMS)と呼ばれている。
そして、PMSのなかでも、特に精神的な症状が非常に強く出て、気分の悪化が著しく、通常の日常生活を送るのが困難になった状態を、「月経前不快気分障害」、あるいは「月経前不機嫌性障害」(Premenstrual Dysphoric Disorder=PMDD)と呼ぶ。
精神的に不安定な状態は月経が始まると落ち着くため、我に返ってから、「なぜあんなことを言ってしまったのだろう」「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」と後悔や自責の念にかられて、抑うつ感が増す場合もある。
特に子育て中の母親が、子どもを怒鳴ったり、思わず子どもに手を上げてしまい、後で自己嫌悪に陥るケースはよくみられる。うつ状態が悪化すると、自己卑下や自己否定から自殺企図など命に関わる行為に及ぶこともあるので、PMDDは決して軽視してはならない。
PMDDのメカニズムには不明な点も多いが、卵巣から分泌される女性ホルモンであるプロゲステロン(黄体ホルモン)やその代謝産物の働きによって、脳内ホルモン(神経伝達物質)の1つであるセロトニンの分泌が減少することで引き起こされるのではないかと考えられている。
脳には無数の神経細胞(ニューロン)が張り巡らされている。神経細胞と神経細胞の間には僅かな隙間があり、その隙間に神経伝達物質が放出されることによって細胞間の情報伝達が行なわれている。
なかでも、情動に大きな影響を与える神経伝達物質にノルアドレナリン、ドーパミン、セロトニンなどがあり、これらを総称して「モノアミン神経伝達物質」という。
セロトニンはノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑えて、心の落ち着きや安定感をもたらす神経伝達物質である。このため、セロトニンの分泌が減少すると、やる気や集中力が低下し、イライラしてキレやすくなったり、気持ちが落ち込んでうつ状態になったりするのだ。
PMSやPMDDの現れ方には個人差が大きい。通常、月経の1週間くらい前から調子が悪くなる人が多いが、長いと排卵直後から月経直前までの2週間、つまり月の半分は不調だという女性もいる。こうなると、もはやその人の生活の質(Quality of Life=QOL)を脅かす深刻な問題となってくる。
月経前に感情を制御できなくなり、暴力的になったり、うつ状態になるのは、突然、人格が豹変するわけではない。自分の意志ではコントロールできないホルモンの波に翻弄されているのだから、本人に罪はない。気合や克己心でどうにかできる問題ではない。
しかし、こうした状態はパートナーには理解されにくく、PMSが原因で仲違いをするカップルは非常に多い。家庭不和から離婚に発展する夫婦もある。大切なパートナーから別れを切り出される前に、勇気を出して婦人科を受診してみよう。