医師 宮沢あゆみのコラム「月経前症候群のメカニズム」
<症例1>
明日は社運をかけたプレゼンテーションの日だ。香織はこの日のために準備した画像をチェックながら、夜遅くまでプレゼンの段取りを確認していた。ここ数日、緊張のためか便秘気味で、お腹が張っている。終電の窓に映る顔も心なしかむくんでいた。
早朝、会場へ向かう車の中で、頭痛と吐き気に襲われた。緊張している自分を感じて、香織は何度も深呼吸をしたが、胸の鼓動が早まり、やたらに口が乾いた。「こんなにプレッシャーに弱かったっけ」自分でも情けなくなった。
何とか会場に辿りついたが、肝心のプレゼンは散々だった。原稿を1頁分飛ばして読んだのに気づかず、画像と説明がずれてしまったり、同じ文章を2度読んだりして、会場からは失笑が漏れた。頭の中が真っ白になり、すっかり平常心を失ってしまったのだ。自己嫌悪に襲われ、その後、どうやって帰宅したかも記憶にない。
翌朝、出社すると、上司に呼ばれて同僚の前で叱責された。
「ここ一番で失敗するのは、お前がたるんでいるからだ」罵声を浴びせられたとたん、香織のなかで何かがプツリと切れた。
「たるんでいるですって?私はこの日のために必死に準備してきたんです。でも、体調がどうにも悪くなって・・・」後は言葉にならなかった。香織は無意識のうちに上司を平手打ちしていたのだ。
驚いた同僚が香織を止めに入った。上司は青ざめた顔で、「女性はすぐ感情的になるから扱いづらい」と言い放ち、その場を立ち去った。
「あの台詞はセクハラよね」「いや、暴力を振るった彼女の方が悪いさ」
ひとり残された香織の耳元で、同僚たちの言葉がエコーのように反響(こだま)していた・・・。
女性は「頭が痛い」「吐き気がする」「むくむ」「集中力がなくなる」「憂うつになる」などの心身の不快症状に周期的に悩まされることがある。
その時期は月経の前に限られていて、月経が始まるとストン症状が落ち着くことから、「月経前症候群」(Premenstrual Syndrome=PMS)と呼ばれている。
PMSのメカニズムには不明な点も多いが、女性ホルモンのバランスが崩れることによっておこると考えられている。
妊娠可能な年齢にある健康な女性は、月に1回、排卵がある。排卵とは卵巣から卵子が放出されることである。放出された卵子が精子と出合って受精し、受精卵が子宮内膜に着床すると、めでたく妊娠となる。妊娠に至らなかった場合には、厚みを増した子宮内膜は剥がれ落ちて体外に出る。これが月経だ。
卵巣から分泌される女性ホルモンには、エストロゲン(卵胞ホルモン)とプロゲステロン(黄体ホルモン)がある。エストロゲンは、妊娠に備えて月経後の子宮内膜を厚くする働きをしている。
そして、排卵後から月経前にかけて分泌が増えるプロゲステロンは、エストロゲンが厚くした子宮内膜を維持して、受精卵が着床しやすい環境を整える働きをしている。
プロゲステロンは妊娠の成立や維持には欠かせないホルモンだが、女性には少々有難くない側面をもっている。体温上昇作用があるため、月経前には体温が上がって、異常に眠くなったり、だるくなったり、集中力が欠如して、ケアレスミスをおこしやすくなるのだ。
また、水分貯留作用があるため、月経前には身体に水分を貯め込みやすく、顔や手足がむくんだり、お腹が張ったり、乳房が痛くなったりする。頭に水分が貯まれば頭痛がおこる。
さらに、月経前には膵臓のランゲルハンス島β細胞から分泌されるインスリンの効果が弱まる。インスリンは血糖値を下げるホルモンで、その効果が弱まれば血糖値は上昇しやすくなる。このため、血糖値を下げようと、いつもより多量のインシュリンが分泌される結果、逆に低血糖状態になる。
低血糖になると倦怠感や憂うつ感をおぼえる。この反動で無性に甘いものが食べたくなる。食欲も亢進するため、太りやすくなる。ダイエットを始めるなら月経前は避けた方が無難だ。
女性ホルモンの司令塔は脳の視床下部にあるが、視床下部には呼吸、循環、血圧、体温調節、内分泌、代謝といった自分の意思ではコントロールできない機能を制御する自律神経の最高指令室(支配中枢という)も存在している。
PMSの多彩な症状は、ホルモンの変化によって視床下部が何らかの影響を受け、一時的に自律神経失調のような状態に陥るのではないか、とも考えられている。
このようにPMSは複雑なメカニズムによって引き起こされているので、「精神がたるんでいる」などという次元の問題とは異なり、本人の意志ではコントロールできないのである。このあたりは男性にはなかなか理解しづらいので、「怠け病」とか「ヒステリー」などと誤解されてしまうことがある。
PMSに対して理解のない上司に、「だから女性は扱いづらい」などと嫌味を言われないように、身に覚えのある女性は早目に婦人科を受診していただきたい。