あゆみクリニック 女医 宮沢あゆみ 女性外来 婦人科 千代田区 完全予約制

あゆみクリニック(女医 宮沢あゆみ)は東京都千代田区、小川町駅、淡路町駅、新御茶ノ水駅近くの女性外来・婦人科です。

インタビュー記事(Yomiuri On-Lineの「大手小町」掲載)

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Yomiuri On-Lineの「大手小町」に掲載された、あゆみクリニックの医師「宮沢あゆみ」のインタビュー記事をご紹介します。

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医師 宮沢あゆみの写真

心と体の悩みを丸ごと受け止めたい
宮沢あゆみ(みやざわ・あゆみ)さん 医師

東京都出身。早大第一文学部卒。
TBSに入社し、報道局政治経済部初の女性記者と
して活躍。外信部、報道情報番組のディレクター、
プロデューサーを経て退社。東海大医学部に学士
入学。
New York Medical College、Mount Sinai Medical Center、Beth Israel Medical Center へ留学。
三井記念病院、都立墨東病院勤務などを経て、
「あゆみクリニック」を開業。講道館柔道2段。

TBS政治部記者から医師へ・・・。宮沢さんは「華麗」なキャリアの持ち主だ。なぜ記者を辞めようと思ったのか、なぜ医師になろうと思ったのか。知りたい気持ちを抑えつつ、会いに出かけた。

宮沢さんは7月1日から、自分の理想の医療を実現するため、女性外来を主として扱うクリニックをオープンしたばかり。診療内容は一般婦人科から思春期、更年期外来、不妊外来、健康診断と幅広い。診療時間は午前11時半から午後7時半と、一般のクリニックに比べれば遅くまで診てもらえる上、昼休みの時間が特に設定してあるわけでもない。

「昼休みや仕事帰りに、仕事に穴をあけずに簡単に駆け込めると同時に、女性の心と体にゆっくり向き合えるような、そういうクリニックを作りたいと思ったんです」

現在の医療は臓器別の縦割り医療で、子宮がんだったら婦人科、乳がんだったら乳腺外科と、各科を渡り歩かなければならない。

「女性の心と体は一体。できれば、あちこちに行かなくても1か所で、心と体を丸ごと診て、いろいろな相談に乗ってくれる『かかりつけ医』がいたらいいんじゃないかと思っていたのです。私が診療して、もし自分の専門分野でなければこの医師を紹介しましょうという橋渡しができれば、患者さんは、病院で各科を転々とすることなく、問題が解決できるじゃないですか。そういう補完的な役割を果たしたいと思ったのです」

 

医師 宮沢あゆみの写真

医師になる前の宮沢さんは、TBS初の女性政治部記者だった。当時の中曽根康弘首相の番記者として記者生活をスタート。権謀術数をめぐらす政治家たちの発言や、永田町で繰り広げられる様々な駆け引きの中から、誰よりも速く、深く、真実をキャッチし、伝えていくという政治記者生活は、ハードながらも宮沢さんの知的好奇心や使命感を満足させる魅力的な仕事だった。その生き方を考え直すきっかけとなったのは、日曜朝の報道情報番組のディレクターへの配置転換。「ニュースショー」であるその番組を担当することは、記者の仕事に誇りを持っていた宮沢さんにとって、「他人のふんどしで相撲を取っているような」ものだった。しかし、サラリーマンの身分で辞令を断ることは、とりもなおさず会社を辞めることを意味する。

「でも、私は自分の人生はあくまでも自分自身で舵を取りたかった。辞令一つで明日をも知れぬ運命という、見通しの立たない人生はごめんでした。私はテレビ局にいて高給をもらえれば、どんな仕事でもいいという人間ではないのです。勉強して力を蓄えるのは今しかないと思いました」

サラリーマン記者ではなく、専門の資格を持ちつつ、専門知識を生かしたジャーナリストとして物を書いていきたい・・・。熟慮の末、宮沢さん選んだのが医師だった。その選択には、辞令半年前に転移ガンで亡くなった母親の存在が色濃く影響している。

「母をガンで亡くした時に、医学知識がないことへのジレンマや無力感を痛感しました。私は、十分ガンと闘ってきた母に無意味な延命治療はしないで欲しいと思っていました。でも、医学知識がないため、何が母のために最善の道なのか、医師に問われても回答が見出せない自分が情けなく、医学知識のなさを恨みました。母の死を思い出すたびに突き上げてくる情念のように激しい感情に背中を押される形で、最終的に『よし、医師になろう』と決心したのです」

目標が定まってからの宮沢さんの行動は早い。まずは受験科目である数学の勘を取り戻すため、御茶ノ水の書店へ行き、中学1年から高校3年までの数学の教科書を購入。空いた時間に会議室でこっそり勉強するなど、働きながら3年間コツコツと受験勉強を進めていった。

医師 宮沢あゆみの写真

「退職して予備校に入ると、収入のあてはなくなるし、医師になれなかった場合に退路を断たれてしまいますから考えませんでした。最初は、国立大の医学部で、理科系の配点が低くて、論文や面接を重視している大学を探していたのですが、途中で学士入学制度を導入している私大があるという情報を得て、最終的にそこを受験し、入学しました」

年間約600万の学費は自分で捻出した。「精力的にアルバイトをすれば、何とかもちこたえられる」と踏んでいた宮沢さんだったが、現実は予想以上に厳しく、学費捻出のため平均5件のアルバイトに駆け回るすさまじい学生生活となる。

「年間ベンツ1台分ですから、年2回の学費納入の期限までにお金を作るため、獅子奮迅でした。本当につからったです。お恥ずかしい話ですが、医学部の5年間というのは、大学にいる時間より、アルバイトをしていた時間の方が長い感じでした。でも、入学当時の私は、時間をかけて学費の安い国立大に入学して医師になるよりも、とにかく医師になる期間が短い方がいいと思ったんですよ」

同級生たちは、学費はみな親がかり。中には、医学部に入っただけでベンツを買ってもらった人もいた。

「私大の医学部というのは特殊な世界で、恵まれた環境の人が多かったので、金銭感覚や価値観が一般の人とずれていくのはやむを得ない面もあると思います。ただ、医師になると1年目から『先生』と呼ばれ、何となく偉いような気持ちになり、そのままいくと大きな勘違いに陥ることもあるんですよね。患者さんとの接し方など医療行為とは別の部分が重要だという点を考えても、社会人を経験して医師になる、苦労して医師になるということを医師はした方がいいと思います」

 

患者さんの家族と私は、病と闘う同志

これまで様々な患者と出会ってきた。最も強く印象に残っているのは、小笠原諸島の父島に、医師が不在の期間、代診として赴任していたときのことだ。父島は、東京から船で25時間以上。このため、急患が出ると、自衛隊の飛行艇を要請し、都内の病院まで運ばなければならない。

医師 宮沢あゆみの写真

「帰京の前日、急性心筋梗塞のおばあさんが運ばれて来ました。命にかかわる状況だったので、自衛隊に飛行艇を要請し、私も同乗しましたが、機内でおばあさんが吐しゃ物をのどに詰まらせ、呼吸が止まってしまったのです。緊急事態なので気管内挿管を試みたのですが、揺れる艇内ではなかなかうまくいかない。揺れで私まで酔ってしまい、何度も失敗しているうちに、心室細動といって、心臓のポンプ機能が働かない状態になってしまいました。そこで、除細動という電気ショックをかけ、心臓のポンプ機能を回復させ、ようやく気管内挿管が成功し、おばあさんの呼吸が回復したときは本当にほっとしました。何度も挿管に失敗した時には、本当に背筋がぞっとして、もしお亡くなりになっていたら、医療行為にミスがなくても、自分は医師としてやっていけないのじゃないかという恐怖がありました。何とか命のバトンを引き渡せたということは、私の中で非常に貴重な経験であり、人の命を救うために全力を尽くすということの大切さと人の命の重みというものを全身で味わった得がたい経験でした」

不幸にして亡くなるケースも数多く見てきた。特に、進行ガンで手の施しようがなくなった場合、その人のQOL(Quality Of Life)を高めるケアを積極的に進めることが、医師としての使命だと感じている。

「治せるガンであれば死力を尽くして闘う、でも、もし不幸にも治らなくなるのであれば、あきらめるのではなく、よりその人に寄り添って、心のケアをしていくことが医師としての大事なことだと思うんですよ。治らないから医師の足がベッドから遠のくというのは卑怯なことだと思います。痛みは十分にとってさしあげ、その人が何をしたいかを十分に聞き、なるべく日常生活に支障がないようなケアに重点を移していくことが必要じゃないでしょうか。その人が最期、この医師と出会ってよかったと思ってくださるようなケアを心がけています。患者さんの家族と私は、病と闘う同志という形でつながっているので、亡くなった患者さんの家族の方と一緒に食事をすることもあります」

 

人と共感できる瞬間を共有できることに生きがい

治療の合間などに暇を見つけては、雑誌に掲載しているエッセイや、今後出版予定の本の翻訳などを手がけている。1年ほど前から、趣味でバイオリンも始めた。精力的に活動する宮沢さんの姿には感服するばかりだ。宮沢さんが記者から医師に転職した顛末を記した著者「天職適齢」(人間と歴史社)は、「転職サクセストーリー」としても、医師やテレビ記者に興味がある人にとっても、とても興味深い記述にあふれている。何かを始めたいと考えている人にはお勧めの一冊だ。

「思っているだけは、事は進展しないんです。本当に自分がやりたいと思うのだったら、自分の頭と足を使って、まず働いて、情報を集めてみることですね。いろいろな人と会ったり、本を読んだりしているうちに、必ずその道に近づく方法が見えてきます。人生は一度きりですが、失敗は何度でもできる。何度でもやり直せばいい。それが大切だと思います」

宮沢さんにとって医師という仕事はどういうものだろうか。

「やはり文章を書くことが好きなので、今度生まれても記者になりたい。でも、自分の医学の知識だけではなく、これまでの長いいろいろな経験が、患者さんの気持ちと触れ合うツールになるのならば、すべて無駄ではなかったし、今、医師であるということは非常に意味のあることだなと思っています。それから、人と共感できる瞬間を共有できることにとても生きがいを感じますね。私は、病気になって弱気になった人の心と体の悩みを丸ごと受け止められるような、そういう存在になりたいし、それができるやりがいのある仕事だと思っています。できれば医師と患者という立場を離れて、いいお友達同士という関係になれたらいいなと思っているんですね」

「人と会って話すのが好き」という性格、医師以外の仕事で培った社会経験、そして記者としての正義感。宮沢さんの今のスタイルに、すべてが見事に結実している。

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